月曜日の朝ですよ、みなさん。また「ちゃんと考えろ」と言われる日々が始まるお・・・。
このごろ思うのは、厳しい苦学をしてきたからといって、必ずしもその人が仕事ができるというわけではない、ということである。いや、そもそも「仕事」自体が多義的だし、何をもって「できる」と呼べるのかも曖昧だから、これは無茶な結論かもしれない。
しかし、ちょっといわせてよ。
職場で求められる能力
ぼくがいま、職場で最も苦しく感じているのは、簡潔に要点を押さえて話すコミュニケーション能力や、あらゆる要素を考慮して適切な判断を下す能力が求められる場面である。いつかのときにも書いたけど、これが求められた瞬間、頭の中がホワイトアウトしてしまうわけだ。
その結果、なんと周りからは何も考えようとしていないヤツだと思われたり、いい加減なヤツだと思われたり、シンプルにバカなヤツだと思われたりしているわけだ。はっはっは。
いや笑い事じゃないから!
そしてその度に、ぼくはこう思うのです。"あれだけ苦学してきたのに・・・"、と。労働時間だけでいえば、ホワイト企業の正社員なみにバイトして自分で学費を払いながらも、大学でもトップ層の成績をたたき出していたのに・・・。
しかし、よく考えたら今までの苦学生活の中で、上記のようなコミュ力や判断能力が問われたことは、ほぼなかった。
苦学で求められる能力
苦学で求められるのは、めちゃくちゃシンプルである。
体力と知的好奇心をもって、ただ無茶をすればいいだけ。目の前の勉学に励み、夕方には学費を働くために深夜まで働けばいいだけ。その中で、誰にも差し迫った判断を問われることはない。そして、誰かに何かを訴えかけて理解される必要なんてない。
そりゃ自分の無能さに気づく機会がないわけだ。それゆえに、ぼくはこう思っていた。"ここまで勉学とアルバイトに励むことができたんだ、これだけ働きながらも良い成績を出せたんだ。ぼくはスゴイんだ!"と。
それだけに、今現在の自分の無能っぷりには、自分でも唖然としている。
問われているものが全く違う
職場と勉学とでは、まったく求められている能力が違うということである。というか、要は社会人と学生の違いだな。よくある話だ。
・・・って、え!?その話に帰結するの?それって学生は甘くて、社会は厳しいんだぞ、という社会人の謎ドヤ顔で、だいたい結論づけられて終わりのヤツじゃん。それって何も面白くないじゃん。何も希望もないやん。
それで片づけられる話なん?いまのぼくの苦しみは。
もうちょっと希望的観測をもって、こう思いたい。苦学と職場で求められる能力の違いは極端に対照的だから、ぼくが精神的に甘いとかじゃなく、慣れの問題なんだと。いつかぼくの本領を発揮するときが来ると、思いたいでござるよ。