しげログ

元ひきこもりなのにヨーロッパで生活している元ひきこもリーマン

毎日がつまらないので中高時代のことを回顧してみる【鬱注意】

 週末になると見知らぬ男性と、どこかへ出かけるようになったのは、ぼくが小学5-6年生頃の出来事であった。それまでぼくの世界には、女性と子どもしかいなかった。つまり母と姉2人、そして学校のクラスメートらである。もちろん、学校には男性教師がいたが、彼らはただの教師でしかない。だから、ぼくにとってこの男性は異質な存在であった。

 その男性と一緒に住むことになるまで、そう長くはなかった。いい年した母が"好きな人ができた。一緒に住む。"とシャツの裾を掴み照れながら、姉2人とぼくに告白する姿に、幼心に少し気持ち悪さを感じた。これらの急展開な出来事に、自分自身が何を感じ、何を考えているのかも分からないまま、しかし言語化できない違和感をどこかに抱きつつも、いつの間にかぼくらは引っ越し、その男性と一緒に暮らすことになった。

 ただ生活水準は確実に良くなった。母子家庭のときは白飯に塩だけ、ということも稀にあったが、月に1-2回は外食ができるようになった。ぼくは、急に父となった男性に、どのように接すればよいのか戸惑っていたが、彼もまた、子どもとどのように接すればよいのか分からない戸惑いを抱いていることは感じた。

 そんな矢先、母の卵巣に腫瘍が見つかった。確か癌というわけではなかったはずだが、ともかく摘出した方がよいということで、手術することになった。ぼくは学校があったので立ち会いはできなかったが、手術は無事に成功した。術後、母は摘出された卵巣を医者に見せてもらったそうだ。"卵巣をしげときにも見せたかった。見せればもっとお母さんのことを大切にしてくれるやろうね"と母は、ぼくに言った。当時はただ、ぼくは母を大切に思えていない酷いヤツなんだとショックを受けたが、いま思い返せば、非常に気持ちの悪い発言であった。

 

 退院後、母は自傷行為を繰り返すようになり、やがて鬱病と診断された。ぼくがちょうど中学校へ進学した頃の出来事であった。

 

 ぼくが最初に目撃した母の自傷行為は、おそらくリストカットであった。父や姉が居間で騒いでいたので向かうと、左手首から血を流している母の姿があった。そして母の頭には、ゴキブリが這っていた。傷は浅く、救急車を呼ぶほどではなかったのだろう、父が血をぬぐい包帯を巻いているのを、ぼくは傍観していた。しかし警戒心の強いゴキブリが、ふつう人間の頭までよじ登るだろうか。ゴキブリですらも、彼女から生気を感じなかっただと思う。

 "目が死んでいる"という表現があるが、真にこれを目撃したことがある人は少ないだろう。台所で包丁を使いリストカットをしている母を、最初に発見したことがある。ぼくは慌てて母に声をかけたが、何も反応はなく、切り刻まれた皮膚だろうか、繊維らしきものを絡ませて血で染まった手首を、ただひたすら切り続けていた。ぼくは恐る恐る包丁を持つ母の手を掴んだが、それを振り払うわけでもなく、しかしまるで油圧で動く機械のように、自動的に、物凄い力で切り続けた。母の顔を覗くと、痛みも悲しみも何も読み取れない無の表情をしており、しかし目だけはいつも以上に開いていた。中にある瞳は、およそ有機物とは思えない、繊細さがない作り物のようだった。ぼくは全身に鳥肌を立つのを感じた。死んだ目とは、あのことである。

 

 2階のベランダから飛び降りる行為も数度あった。玄関でドタバタする音がしたので目を覚ますと、夜中の2時頃だった。玄関の扉は空け放されており、転げて散らばったサンダルがあった。スタスタと駆ける音がしたので、父の足音に違いなかった。まさかと思い、ぼくは両親の寝室へ小走りで向かい、襖の扉を開くと、ベランダへの窓が全開となっていた。カーテンが、夜風に吹かれ、室内へ大きく翻っていた。翻るカーテンの隙間から、月が見えた。ぼくは、震えてしまって自由に動かせなくなった両足を、交互に無理やりに動かしながら、何とかベランダへ出た。生ぬるい夜の空気がした。欄干に両手をおき、ぼくは頭を恐る恐る近づけ、ようやく地面を眺めた。四肢を投げ出して横たわる母がいた。やがてすぐに母に駆け寄る父の姿が見えた。そこから、どのように過ごしたかわからない。夜中の府営団地群に響き渡るサイレンの音、赤く染まる視界に担架で運ばれる母がいた気がする。

 母は、夕方に飛び降りたこともある。ちょうど学校から帰宅する時間帯だった。翌日の教室で、近くに住む同じクラスの女子に母の安否を聞かれた。それ以来ぼくは、徐々に不登校気味になっていった。

 

 オーバードーズも目撃した。母は昼過ぎになってもなかなか寝室からまだ出てこなかった。まさかまたリストカットでもしているのかと思ったが、激しい鼾はずっと聞こえていたので、そんなはずはなかった。しかし、いつまで経っても起きないのを不自然に思い寝室に向かうと、うつ伏せの状態で、顔をこちらに向けて眠っている母の姿があった。但し、鼻と口から茶色いドロドロとした液体を大量に流しながら。やがて駆けつけた救急隊員が、担架に乗せるために母を持ち上げると、折り曲げて口元にあった右腕や、胴体に沿って伸ばし切った左腕も、まるでマネキンを動かすように、あるいは、まるで見えない床ごと持ち上げたように、胴体と一緒に宙に浮いて、うつ伏せの格好のままだった。つい先ほどまで、ずっと布団に触れていた皮膚は、ぶよぶよにふやけており、異様に体積を増していた。オーバードーズした患者を受け入れていくれる病院は少ない。ぼくは1時間近くも放浪し続ける救急車の中で、揺れる母の体を支えながら茫然としていた。やっと受け入れてくれた病院は他県にあった。もしぼくの発見がもう少し遅れていると、茶色の液体が喉に詰まり、窒息死していたらしい。

 

 こうした日々が、中学生の3年間続いた。ひどい時期には、月に2-3回は救急車を呼んでいたかもしれない。そしてぼくが、何か不用意な、あるいは、思いやりのない発言をしてしまうと、その晩に母は必ず自傷行為をした。それは、まるで天罰が下されたようだった。もしかすると、この頃に、ぼくは自分がどうしたいのか何をしたいのか、そうした意志を持つことを辞めてしまったのかもしれない。30代半ばになった今でも、よく"どうしたい?"と妻や他者から聞かれるのだが、その質問をされると頭がぐちゃぐちゃになり、やがてホワイトアウトする。

 

 中学3年生にもなると、クラスでは五ツ木模試や進学先の高校について話題が広がっていた。ぼくは、これらが完全に他人事のようだった。両親はぼくの行く末を気にかけなかった。そして市内で恐らく最も偏差値の低い高校の入試を受けた。数学はほぼ白紙だったにもかかわらず、合格した。

 高校を進学した頃、母の自傷行為は依然として続いていたが、頻度も度合いもマシになった。そしてぼくも、バイトで自分の金を持てるようになり、余裕ができた。しかし学校で話す友人は2人程度いたが、校門を出ると他人だった。他の高校生たちに比べて浮いていたのは間違いない。もしかすると、それが人生経験の少ない女子たちには、良く見えたのかもしれない。学校でもバイト先でも恋愛というものを経験した。しかし恋愛以外での人間関係の築き方は、わからなかった。

 

 高校2年の夏、ぼくは中退した。毎朝、学校に行くつもりで身支度するのだが、玄関に立つと急に通う気が失せるという日々が続き、やがて不登校になったからだ。今でも、なぜぼくは高校を中退したのか、明確な理由が分からない。虐められていたわけでもない、彼女もいた。成績も極端に悪いわけではなかった。

 両親はぼくに無関心だった。姉2人は優しかったが、自分の人生で精いっぱいだった。むろん教師も、ぼくに無関心だった。まともな大人がいない環境だった。それゆえに、ぼくはぼく自身との対話の仕方も分からないままだったのかもしれない。自分が何を感じており、何が問題で、どうすればよいのか、分からないまま、ぼくは高校を中退することを選択したのだろう。

 

 その日は、夏休みだった。制服に着替えたぼくは、親に署名してもらった退学届けを携え、自転車で高校へ向かった。いつもの通学路を辿った。路地裏にある急で細い下り坂を、危険を顧みることなく、いつも通り、ノーブレーキで駆け抜けた。湿った冷たい空気が、汗ばんだ額を冷やし、気持ちよかった。いつもの寂れた商店街を、今度はゆっくりと、できるだけ汗をかかないように、自転車をこいだ。商店街を抜けて右折すると、真っすぐに高校の校門まで伸びる大きな道路があった。ぼくは左右に広がる田んぼを眺めながら、校舎に向かった。校舎には高校生の姿が1人もおらず、セミの鳴き声以外は静かで、居心地がよかった。ぼくの足音だけが響く廊下を進み、職員室に向かった。そして、京大卒にもかかわらず、こんなバカ高で化学を教えている担任教師に、退学届を提出した。彼は事務的に受理した。どこか生徒を馬鹿にしている彼が嫌いだった。

 そして何事もなかったかのように、誰にも引き止めれらず、ぼくは校門をでた。そして目の前に伸びる道路を、ぼくは自転車を立ちこぎして、奇声を上げながら全力疾走した。真っ青な空に、大きな入道雲の下、何もかもが分からないままに。