とっくに削除したと思っていたブログが、まだ息をひそめて生きていることを発見した。ちょっぴり懐かしい。とっくに非公開にはしたが、こんな記事を書いていたんだなぁ。
2020-12-19 投稿
とあるニュースに対して抱いた感想が、どうやら世間一般とは少しズレているようだと気づいたから、書き綴ったわけだ。時は、雪が降り積もる 2020年末のこと。
以下、ずっと引用。
中止になった甲子園
この寒い12月に、いまさら今夏の話になるのだが、夏の高校野球がコロナ対策のために中止になったそうだ。こうした措置は戦後初とのことで、そこそこネットやテレビでも騒がれた。
高校野球児への同情が多く寄せられた。
「必死になって練習していたのに、可哀そう」
ぼく自身も確かにある程度は可哀そうと思うのだが、わりとあっさりしたもので、"かわいそっ!以上"って感じである。だって一生懸命に努力していても、不条理な理由で報われない若者なんて、野球児や夏に限らず、常にいるからだ。
例えば、機能不全家庭で育つ子どもたち。
なんとか家庭の均衡を保とうと、一生懸命に自己犠牲を払っていても、無慈悲にもそれが叶わない子どもたちは、日々山ほどいるのだ。にも関わらず、なぜ野球児にだけは、これほど手厚く同情されているのか。
もしぼくの目の前に、機能不全家庭に育ち絶望している高校生がいれば、「今の家族だけが人生の全てではない」といってあげたい。そう、つまり「野球だけが人生ではない」のである。
「あんなに頑張ったのに甲子園中止になって、本当に残念だったね。でも、仕方ないことなんだよ。だからといって、終わりじゃない。人生、野球だけじゃない。もっともっと打ち込めることは、山ほどある。今は辛いけど、きっと良い未来があるさ」
そう声をかけるだけでいいじゃない。
なのに、なぜマスコミや多くの人は、野球児がいかに可哀そうなのかを執拗に主張しているのだろう。
大衆受けする感動
それはたぶん、けっきょくのところ大人たちが観たかっただけなんだと思う。汗水ながして土に汚れて全力で走る、誰が見てもわかりやすいザ・青春を観たかっただけなんだろう。
けっきょく、大衆受けするわかりやすさが最強。
機能不全家庭で育つ高校生たちの挫折は、基本的に機能不全家庭で育ってきた大人たちにしか理解しづらい。理解するためには、それなりの時間と精神力を削ることになる。せいぜい、フィクション映画などで感動する程度だろう。
一方で、汗水流して何かに打ち込んできた高校生の挫折は、大なり小なり、だいたいの大人たちには経験があることで、わかりやすい。だから、こうしたことに敏感に反応できるのだ。
まとめ
なんだったら、こうした大人たちの中には、野球児に可哀そうといった口で、機能不全家庭で育つ子たちに対して、「本人の努力不足」などと平気でいっているのかもしれない。ま、これはただのぼくの妄想だけど。
ユニフォームにグローブ、野球に専念できる家庭環境と親。これだけ揃った中流層以上の高校球児たちが、大勢の大人と団体に同情され、億単位の金さえも動き、救済措置が配慮される。
ぼくなりに結論めいたことは一切ないけど、大人たちが観たいだけなくせに、「悲劇の高校生」に仕立て上げて同情しまくっていることに、違和感を覚えただけ。
以上、引用終わり。
終わりに
ま、なかなか偏った意見だわな。どうせ。
実際、貧困家庭の中なんとか野球をやり続けている高校生もいてるだろうし、一括りにして論じてはいけない。でもやっぱ、ぼくは同情している大人たちも、けっこう偏っていると思う。