しげログ

元ひきこもりなのにヨーロッパで生活している元ひきこもリーマン

【死者への弔い】身近な人が亡くなった時に大切にすること

 

 実は少し前に身内を亡くした。その人は、いわゆる急死であった。仕事をしていると日本にいる身内から連絡があり、急に亡くなったことを知らされた。

 

 正直、その人はもともと精神的な病気を患っていたし、不摂生ではあったので、遠くないうちに亡くなるかもしれないなぁとボンヤリとは思っていたが、いざその一報を受けたとき、なかなか状況を理解できなかった。最初はそれが他人事のように聞こえてしまい、気が抜けた返事をしていたかもしれない。淡々と受け答えを行い、会社に報告した。暫くしてようやく、"ついに来てしまったか"と思った気がする。

 

 その後も色々とあったが、この辺りでやめておこう。ともかく身近な人が亡くなったのだった。ぼくは最近になって、死者に対する一つの考えを持つようになった。

 

 誰かが亡くなったとき、その身近な人は悲しみに暮れる。そして周り人たちは、それを見て"正しくないステータス"と認識するので、"元気だせ"といったような励ましの言葉をかけるかもしれない。しかし、ぼくが思うに元気を出す必要などない。悲しい・辛い・可哀そう。それで良いのである。そうした感情を一身に受け止め続ける。むしろ、そうでなければならない、と言ってもよいかもしれない。

 

 なぜなら死者は、生者の誰からも思い出されることが無くなったとき、真にこの世から消えてしまうからだ。その悲しみこそが、その人が生きた証なのだ。その悲しみを一身に受け止めることこそが、死者をこの世に留まらせる手段なのだ。

 

 もちろん今はその悲しみは受け止めきれないほど大きいから、死者を思い出すことは容易い。しかし1年後、3年後、5年後、10年後はどうだろうか。進学・就職・昇進・結婚。そうした中で、段々と死者を思い出すことは難しくなっていくだろう。しかし前述の通り、それこそ死者が最も恐れていることだと思う。

 

 月並みな表現だが、死者は人の記憶の中でしか生きられない。だからぼくは、その人をできるだけ毎日思い出すようにしてやってる。会社帰りの車の中など日常生活の中でも思い出すことはもちろん、観光地などで美しい風景を観て感動したとも、ぼくはその人のことを思い出してやる。

 

 そうすると、ぼくを通じて、その感動がその人にも伝わっている気がするのだ。この理屈でいうと、もちろんその反対も伝わってしまうだろう。ぼくが辛いと感じたとき、おそらくその人もそう感じてしまっている。

 

 死者への最大の弔い。それは死者のことを毎日思い出して、生者として真っ当な人生を歩むことである。なぜなら、そうすることで死者が歩みたかった人生を、生者を通して、きっとまた生きることができるから。