しげログ

元ひきこもりなのにヨーロッパで生活している元ひきこもリーマン

ポジティブ強制社会に生きる

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 就職して府営団地の実家からでるとき、ぼくはスーツケースひとつだった。

 

 中には数組の服とパソコンとカメラくらいしか入っていなかった。新居にはできるだけ実家の香りを感じるモノを持ち込みたくなかった。実家での生活は辛いことも多かったからだ。ゼロから始めるつもりだった。

 ひきこもり時代に乱読した約800冊にも及ぶ書籍。これも例外ではなかった。読んで感じた感情さえ残っているなら、それでよい。読み捨ててしまえ。

 

中島義道との出会い

 

 それでもスーツケースに忍ばせた書籍は数冊あった。

 

  中島義道。

 

 彼の書籍だけは重い荷物を増やしてでも、持っていくことにした。どれほど彼の書籍に助けられたか。あるいは、苦しめられたことも非常に多いけど。初めて読んだのは、『人生に生きている価値はない』。

 

 

 当時のぼくは、非常に語彙力が乏しかったので難解な内容に感じたが、驚愕したことは一つある。

 

ネガティブであることの是非

 

 世間一般だと徹底的に思想警察に糾弾されて煙たがれるマイナス思考、ネガティブなこと、それらをおおっぴらに考察して論じていたことだ。ぼくは全身の血管が脈打つのを感じるほどドキドキしたことを覚えている。

 

 鬱病の母の自傷行為に振り回された少年期。母子家庭。そんな母を支えるのは子どもたち。同級生たちとまるで違う劣等人生。こんな家庭環境下で生きてきて、明るく元気に生きていれるわけがない。にも関わらず、明るく元気であることを強制して思考停止を促す学校や社会では、その辛さを出すことはイケナイことなのだ。

 

 辛い顔をすれば、"元気出せよ"と言う。辛いなら辛いで良いのに。無理に元気を出す必要なんてない。"みんな辛いんだよ"と言う。それで何が解決するのだろう。

 暗い顔をしてれば、"おい暗いよ笑"と言う。暗いことの何が悪いのだろう。なんて厚かましい言葉だろう。

 

 今までどこかムラムラと感じていたそんな人生への違和感に、この書籍は言葉を与えてくれた。自分の感覚は間違っていないのだと自信がついた。それからというもの、ぼくは中島本を読み漁った。

 

座右の書『働くことがイヤな人のための本』

 

 おそらくネガティブではない人にとって、彼の文章は受け入れがたくイライラしてしまうだろう。何をコイツはネチネチと意味のないことを論じているのだ、と。

 

 

 

 反対に、ネガティブな人にとっては大きな救いや勇気になりうる。特に『働くことがイヤな人のための本』は、何度読み返したか。

 

中島本の良いところ

 

 中島本の凄いところは、たんにネガティブさを肯定して、明るく元気であることを強制する社会を批判するだけじゃないところだ。むしろ、そうした姿勢を批判的に捉えている。それは思考停止状態の非常に醜い自分勝手な人間でしかない。

 

 そうではなく、ネガティブであることは自然なことであると捉える。一方で社会は、明るく元気な人が圧倒的に多く、それがスタンダードである事実。これは本当に非情なことだが、現実はそうである以上、動かせない。その上で、ネガティブな人間はどう生きていけば良いのか?

 そういうことをマジで脳が痺れるほど考えさせられるし、一緒に考えてくれる。ありがちな社会を批判している彼をみて、痛快痛快と笑って終わるだけではない。

 

座右の・・・

 

 やっかいな感性をもって生まれ育ってしまったぼくは、ほんの小さいことでさえも苦しむことがある。そのたびに中島本を開いて、生き抜くヒントを探している。ぼくにとって彼は座右の書、ならぬ座右の哲学者である。