しげログ

元ひきこもりなのにヨーロッパで生活している元ひきこもリーマン

【"集団の笑顔"という圧力】個人の苦しみは隠さなければならない

 

 さて本日も、新入社員時代の暗黒手記を元気よく投下。

 

 入社してすぐの大規模な飲み会に苦しむぼく。社会人7年目の今でも、飲み会は苦手なので基本的にほぼ全て断っている。しかし、ようやく最近に気づいたんだけど、ぼくはサシで飲むときは、わりと喋れるどころか、わりと楽しく喋れるんだよな。要は集団が苦手ということである。(2023年5月4日追記)

 

 

~~2017年8月11日14時頃~~

 

 

 うちの会社は、わりとホワイト企業なのだが、唯一かつ最悪の欠点をいうならば、飲み会や行事が行われる頻度が多いことである(まぁ他の会社で働いたことないけど)。ほんと苦痛で仕方ない。しかし、飲み会の辛さは、また別に書くこととしよう。今回いいたいことは、そこではない。

 

飲み会と余興

 

 そんなイベントが多い会社であるのだが、その中でも最大規模といえる催しが、迫ってきている。そんなもの、好きな人同士でやってりゃいいのに・・・。ぼくは苦手で苦手で仕方がないので、まず行かない。と言いたいところだが、なんと大変迷惑なことに、新人は絶対参加となっている。それだけじゃない・・・。新人は余興をしなければならないことになっている。

 

 なんでこういうことをするのだろうか。こんな面白くもないことを思いつくヤツはどんなヤツなんだろう。それにこういうことを好きでもないヤツが参加したところで、上手く笑顔やノリを合わせることができずに、雰囲気を壊して「なんで来たの?」と思わせてしまうだけなのに。

 

蘇る悪夢と恐怖

 

 しかも、その余興ってのが、ダンスで、曲は有名なあの曲である。ぼくは頭を痛めた。行事でダンス、そしてこの曲。この状況、どこかで経験したことがあるような。・・・そうだ!高校の文化祭だ!!もう勘弁してくだされ・・・。

 

集団の笑顔

 

 集団の笑顔の圧力は、凄まじい。文化祭での集まりは、まさにソレ。「みんなで楽しいことをしよう」。その中では、個人の悲しみも苦しみも無いものとされます。いや、そこにはあってはならないものなのである。ぼくは、笑っていなければならないのである。

 

 当時のぼくが、そこまで考えていたとは思えないが、大勢でワイワイと笑顔でひとつのことをしている雰囲気に、非常な違和感を覚えたことは間違いない。わりとゴタゴタしていた未成年時代、そういう高圧的な笑顔でさえも、苦しかったのである。なので、徹底的に避けた。放課後のダンスの練習も、本番も一切でることはなかった。

 

笑顔による迫害

 

 すると、なぜか怒る人が出てくるのである。「みんなでやることに意味がある」「仕方のないことだから」。しかし、ぼくが出ないことで、誰に迷惑がかかるのだろうか。全員でやりたかったけど、一人が欠けている状態がイヤなのだろうか。

 

ということはやはり、集団の笑顔の前には、個人の苦しみがあってはならないということだ。

 

自分も自分である

 

 とはいえ、これが通用したのは、まだまだ人生経験が少ない高校生のぼくだったから。いい加減に、いい歳したぼくが、こうグズグズいってるのも、それはそれで醜いもんである。しかし、いまでも飲み会や行事での集団の笑顔を前にすると、ギョッとするのは事実である。

 

上司の評価とか出世とか、全くどうでもいいんで、なんとかして今回も会社の催しに出ずに済ませたいものだ・・・。